• 閲覧注意:基本的には爽やかな夏のBL小説ですが、一部軽度のグロテスク(猟奇的)な描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
  • 和訳ついて:本文は中国語の原文をGemini3が和訳し、本人が校正したものです。不自然な点があるかもしれませんが、ご容赦ください。

 

夕日が西に沈み、小舟が海面で揺れている。潮の香りが混じった海風が、二人の髪を優しく撫でていく。龍宮(たつみや)は船縁に腰を下ろし、暁(あきら)の淡々とした視線を正面から受け止めた。

 

「気を付けてね、溺れないように。」

暁は舷側に立ち、襟元を少し引き上げた。

いつも肌を厳重に隠している。真夏だというのに、首筋を外に晒すことは滅多にない。

 

「安心しろって。みんなが俺をなんて呼んでるか、忘れたのか?」

龍宮は自慢げに胸を叩いた。

「人魚様だぞ!」

 

「そんなの、ただのあだ名だってば……」

暁は呆れて首を振った。

「さっさと探し物を見つけて、早めに戻ってこいよ。」と促した。

「おうよ!」

龍宮はニッと笑うと、そのまま後ろへ倒れ込んだ。

 

つま先が空中に美しい弧を描き、ドボンという音と共に海中へと沈んでいく。

冷たい海水が四肢を包み込み、気泡が耳元を滑り抜け、海面へと昇って弾けた。

馴染みのある塩辛い味が口の中に広がる。

まるで母胎に戻ったかのような心地よさの中、彼は深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した——。

 

海の酸素は、やはり甘美な味がする。

 

彼と暁は毎週末、養父の船で海釣りに出かけるが、釣りはあくまで名目に過ぎない。

彼の真の目的は深海に潜り、ある物を探すことだった。

もっとも、それは彼自身でさえ荒唐無稽だと感じる話であり、暁には一度も話したことがない。

今日もきっと、徒労に終わるだろう。

 

足の無事を確認すると、彼は迷うことなく深海へと潜っていった。

光は薄れ、水圧は増していくが、彼の目が魚影や岩礁の輪郭を捉えるのに支障はない。

いつものように辺りを探索するが、やはり収穫はなかった。

 

(……そろそろ戻らないと。潜りすぎると暁が心配するしな。)

 

浮上しようとした、その時だった——。

何かが、彼の足首を掴んだ。

龍宮は慌てて振り返った。視線がその存在を捉えた瞬間、心臓が早鐘を打った。

 

——人魚だ!

やっと見つけた!

 

彼女の上半身は海藻のように濃密な黒髪で埋もれており、表情は読み取れず、下半身は深茶色の鱗に覆われた無骨な魚の尾を持っていた。

それは深海魚そのものであり、彼が想像していた夢のような人魚の姿ではなかった。

しかし、何よりも「本物」としての存在感を放っていた。

 

龍宮は咄嗟にその冷たい手を握り返した。

しかし、人魚は小首をかしげると、突然身をよじって拘束を解き、海面へ向かって電光石火の速さで急上昇し始めた。

龍宮は慌てて後を追うが、人間の足では魚の尾を持つ彼女のスピードには、到底歯が立たない。

見失いかけたその時、人魚はふと振り返り、彼を一瞥してから速度を落とした。

龍宮はムカッと全力で加速し、二人はほぼ同時に海面を割って出た。

 

夕陽が水面に金色の光を撒き散らしている。

 

人魚はじっと龍宮を見つめ、長い沈黙の後、ようやく口を開いた。

「やっと……あなた、見つけた。」

人魚の声は天上の音楽のように美しかったが、その口調はどこかたどたどしい。

龍宮は目を見開いた。

「俺を知ってるのか?」

龍宮が口を開いた瞬間、目の前の人魚が恭しく頭を下げたことに、彼はさらに驚いた。

 

「王子……殿下。ご無事で、何よりです。」 人魚はそう言うと、泣きそうな声を漏らした。

「はあ? 王子……?」 龍宮は驚きのあまり、目玉が飛び出さんばかりに見開いた。

「その白髪、赤髪。人魚王族の特徴です。」

人魚は誠実な眼差しで訴えた。

「王族、残るはあなた様だけ。どうか……深海へ、お戻りを。」

「深海?戻れって?」

龍宮はフリーズした頭を必死に回転させた。

「でも見ろよ、この足は魚の尾じゃないんだ。どうやって海で暮らすんだよ?」

「大丈夫。魔法の薬、錬金術師から、もらいました。」

 

人魚は腰からコルク栓のついたガラス瓶を取り出した。

中の液体は不気味な緑色の光を放っている。

……え、これ本当に飲んでも死なないやつ?

 

「飲めば、人魚の尾に変わります。」人魚は自信満々に、誇らしげに言った。

「とても良い、希少なもの。人魚の尾、永遠に続きます。」

「……待って。ってことはつまり——」龍宮は慌てて遮った。「この魔法の薬?とやらを飲んだら、俺は永遠に人魚になって、もう二度と人間の足には戻れないってことか?」

 

「その通り。」

人魚の口調は岩礁のように固く揺るぎない。

「深海こそが、あなた様の帰る場所。」

 

龍宮は言葉を失った。

生まれてからずっと陸で暮らしてきたのだ。

いくら能天気な龍宮といえど、即決するにはあまりに重すぎる選択だった。

「ちょっと消化させてくれ。考える時間が欲しい。」

龍宮は躊躇いがちに言った。

 

人魚は予想していたかのように数回瞬きをした。

「分かりました。太陽が深海に沈む、七度目の時。ここで、私、あなたの返事を待ちます。」

人魚は素早く薬を龍宮の懐に押し込むと、振り返りもせずに海中へと潜り、瞬く間に姿を消した。

 

龍宮は手の中の薬を見つめ、呆然と立ち尽くした。

これを飲んで深海で暮らすと決めれば、もう二度と陸には戻れない。

魚の尾は海中では自由だが、陸上では一歩進むことさえ困難になるだろう。

 

陸への未練があるとすれば、それは親しい人々——。

家族に関しては、放任主義を貫く養父の巻雲なら、干渉してこないだろう。

友人たち——実家の居酒屋によく来る妖怪たちも、彼が陸の気温変化ですぐ体調を崩すのを見かねて、「もう海で暮らした方がいい」と口を揃えて勧めてくる始末だ。

 

なら、他に誰がいる?

船の上で彼を待っている、暁だ。

 

待てよ、海に潜ってから、どれくらい時間が経った?

 

龍宮はハッとして、猛然と船の方角へ泳ぎ出した。

暁は普段こそ温厚だが、本気で怒らせると洒落にならない。

ましてや、自分が人魚のハーフであることは、暁に一度も打ち明けていないのだ。

 

龍宮の脳裏に、ある記憶が蘇った。

小学生の夏休み、暁と市民プールに行った時のことだ。

龍宮が深いプールでお得意の潜水テクニックを、これでもかとキメまくっている間にも、岸にいた暁の顔色はみるみるうちに青ざめていった。

数分後、泳げもしない暁が突然水に飛び込み、龍宮を助けようとして、結果的に自分が溺れかけたのだ。

 

その時、龍宮は初めて理解した。

暁にとって、自分はただの「泳ぎが得意な『人間』」に過ぎないのだと。

そして、普通の人間は、溺れるものなのだと。

 

胸騒ぎが強くなる。

船縁にたどり着き、そこに暁の姿がないのを見た瞬間、その予感は無情にも的中した。

暁は自分に何かあったと勘違いして、後先考えずに海に飛び込んだに違いない!

 

龍宮は即座に潜水し、目を閉じて精神を集中させた。

全身で海流の流れを感じ、あらゆる方位からの振動を耳で捉える。

突然、龍宮の体が震え、彼は弾かれたように夕陽が沈む方角へと猛スピードで泳ぎ出した。

 

ほどなくして、龍宮の目は海面に沈んでは浮かぶ人影を捉えた——暁だ。

必死に手足をばたつかせているが、明らかに溺れている。

龍宮は急いで暁を抱き寄せ、足場を探した。周囲に船影は見当たらないが、幸い陸地の輪郭はそう遠くない。

龍宮は深く息を吸い込むと、意を決して暁を抱えたまま海岸まで泳ぎ切った。

 

ようやく安全な場所にたどり着き、龍宮は暁を砂浜に寝かせた。

固く閉じられた暁の目を見つめる。濡れたまつ毛から水滴が落ち、湿った唇を伝っていく。

龍宮の心臓がドキンと跳ねた。

 

そうだ、人間が溺れた時は人工呼吸をするものだ。

 

龍宮が顔を近づけようとしたその時、暁が突然激しく咳き込んだ。龍宮は慌てて、誤魔化すように暁の背中をさすった。

呼吸がようやく落ち着いた暁が発した第一声は、意外なものだった。

「君が無事で、本当によかった……」

「それはこっちのセリフだろ!」

龍宮は恐怖と安堵が入り混じった声で叫んだ。

「お前が無事で本当によかった! 心臓が止まるかと思ったぞ!」

「だって、君がいつまで経っても戻ってこないから……」

暁は力なく笑い、海水をたっぷり吸ったシャツを絞った。

 

「もう二度と、そんな無茶はするな。」

龍宮は真剣な眼差しで、暁の両肩をぐっと掴んだ。その手には、まだ恐怖の余韻が残っている。

暁は目を逸らし、力なく笑った。

「……また馬鹿なことしたって、呆れてるだろ?」

「呆れるわけないだろ?」

龍宮はぱっと表情を明るくし、顔をグイッと近づけ、満面の笑みで目を細めた。

「むしろ――そこまで俺のこと心配してくれたんだーって思ったら、嬉しくなっちゃったよ!」

おどけて片目をつぶり、得意げに続ける。

「暁って、ほんと俺のこと好きだよな!」

暁も、ふっと肩の力が抜けるように笑った。

 

「……ほんと、そういうとこ、君らしいな。」

 

その笑顔を見て、龍宮のふざけた表情が消えた。

暁の姿に見入ってしまう——鮮やかな夕暮れの光が暁の髪に降り注ぎ、滴る水滴が肩を打ち、海水に濡れたシャツが艶やかな肌を透かしている。

龍宮の視線は、吸い寄せられるように彼の首筋へと滑り落ちた。

——そこには、手術痕のような跡が見え隠れしている。

龍宮は急に喉が渇くのを感じ、無意識に自分の頬をつねった。

 

そうだ……。

もし深海へ帰るのなら、その前に、暁に告白しよう。

 


 

「船を海に捨てて、ようおめおめと帰って来れたもんじゃのう。」

 

巻雲(まぐも)の声は、巨大な丸太を断ち切る鉄鋸のように低くしゃがれており、耳障りな音を立てた。

眉間に深い皺を刻み、陰鬱な表情を浮かべる養父の姿に、龍宮は恐ろしくて顔を上げられない。

 

龍宮の家——どこにでもある普通の居酒屋は、すでに閉店時間を過ぎていた。

店主である河童の巻雲は、箒の動きを止め、ようやく隣の龍宮に目を向けた。

龍宮は今、テーブルの小さな汚れを必死に拭きながら、額に冷や汗をにじませている。

 

龍宮は雷が落ちるのを覚悟して目を閉じたが、聞こえてきたのは拍子抜けする軽い溜息だった。

「まあ良い。磯女のババアに船を持ってこさせる。ツケが溜まっておるのじゃ。」

龍宮が呆気にとられていると、巻雲は不意に顔を近づけ、くんくんと龍宮の匂いを嗅いだ。

あまりに突然の行動に、龍宮は驚いて数歩後ずさった。

 

「おぬし……今日、人魚に会うたのじゃな?」

巻雲は眉を吊り上げ、目尻に微かな驚きの色を浮かべた。

 

「え? 匂いで分かるの?」龍宮は驚いて声を上げた。

「当然じゃ。おぬしに残っておる妖気は、おぬしの母親とそっくりじゃ。」

そう言うと、巻雲の表情はますます陰鬱になった。

「あのイカれた連中、おぬしに何を吹き込んだのじゃ?」

「ちょ! 親父、人魚に対してその言い方はないだろ!」龍宮は慌てて弁解した。

「彼女はいい人、いや、いい魚だったよ! 俺のこと人魚の王子だなんて呼んでくれたし!」

「……どういうことじゃ?」

 

龍宮は早口で、人魚との約束について説明した——

一週間後、陸に残るか深海に戻るか、返事をしなければならないことを。

 

「親父、俺どうすればいいと思う?」

「好きにするがよい。」巻雲は手をひらひらと振った。

「おぬしはもう成人じゃ。己の身の振り方は、己で決めるがよい。」

「海底の生活がどんなものか、興味はあるんだよね!」龍宮はあっけらかんと言った。

「だって俺、人魚のくせにそんなことも知らないなんて、情けないじゃんか!」

「その石頭、どうにかした方がいいぞ。」巻雲は眉間の皺をさらに深くした。

「石頭?」龍宮は首を傾げる。

 

「自分が完全な人魚か、人間か。どちらかにならねばならんと思い込むのは、やめるのじゃ。」

 

巻雲は額を押さえ、重苦しい溜息をついた。

「若いのう。若すぎるわ。」

「四百年も生きてる親父と比べたら、ピチピチに決まってるだろ!」

龍宮は舌を出した。義父は相変わらず、一言一句が謎かけみたいだ。

巻雲は持っていた箒で、龍宮の頭を軽く小突いた。

「とにかくじゃ、」

彼はしばらく黙考してから、口を開いた。

 

「よう考えるのじゃ。おぬしにとっての『故郷』とは何なのかを。」

 

龍宮はズキズキする額をさすりながら、巻雲の忠告を聞き流した。

彼は養父とは違う。混沌とした宇宙から、もっともらしい真理を導き出すなんて芸当は苦手なのだ。

 


 

七日間。

深海へ帰る期限が来る前に、暁に告白しなければならない。

一刻の猶予もない。龍宮は決意を固め、翌日には暁を水族館へと連れ出した。

夏休みの水族館は、足の踏み場もないほどの混雑ぶりだ。隣を歩く暁の足取りが、どこかおぼつかない。そういえば、彼は昔から人混みが苦手だった。 龍宮は深く息を吸い込むと、暁の手をぎゅっと掴む。そのまま雑踏を縫うようにして、穴場のトンネル水槽へと逃げ込んだ。

 

ふう、事前に下調べしておいて正解だった。

……この暗がりなら、顔の火照りを悟られずに済む。

 

巨大な水槽の中、海月が花笠のようにゆらゆらと漂っている。幽玄な青い光が暁の横顔を照らし、長い睫毛さえも発光しているかのようだった。

その光景に見入る暁の傍らで、龍宮は心臓が口から飛び出しそうなほどの鼓動を感じていた。

薄暗い空間に、二人きり。これじゃまるで、漫画の告白シーンじゃないか!

 

「あのさ、暁……」

 

喉が締め付けられるように熱く、手のひらには嫌な汗が滲む。

暁が振り向いた。その瞳は青い光の中で、いつも以上に深く澄んで見える。その視線に背中を押されるように、龍宮は一歩踏み出し、暁の両肩をガシッと掴んだ。緊張のあまり力が入ってしまい、声もわずかに震えていた。

 

「言わなきゃいけないことが、あるんだ! 俺、本当は——」

 

布越しに伝わる震えを感じ取ったのか、暁はふっと目を細めた。

そして、龍宮の「恐怖」を察したかのように——。

 

「大丈夫だよ、龍。」

落ち着き払った声が降ってくる。

暁は、龍宮の冷たい手の甲にそっと自分の手を重ね、なだめるようにさすった。

 

「水槽は見なくていい。僕を見て。ほら、深呼吸して。」

 

「……え?」

固まる龍宮。喉元まで出かかっていた言葉が、そのまま行き場を失う。

 

「ここは暗いし、青くて、水だらけ……」

暁は申し訳なさそうに眉をひそめ、視線を落とした。

「昨日の溺れた感覚を思い出させちゃったね。ごめん。」

 

暁は右手でそっと龍宮の頬に触れた。指先が少し冷たい。

「ほら、手が震えてる。呼吸も乱れてるよ。」

あまりにも純粋な眼差し。見つめられるほどに、龍宮はいたたまれなくなった。

 

——違う! 違うんだ! 人魚の俺が溺れるわけないだろ! お前は俺のオカンか!

心の中で猛烈なツッコミを入れながら、龍宮の顔は青くなったり赤くなったりと忙しい。

 

「い、いや! 暁、俺は緊張して——」

「いいんだよ。」

 

暁は優しく遮り、さらに歩み寄った。

そして背伸びをすると、自分の額を龍宮の熱い額に、こつんと当てた。

近すぎる。暁の柔らかな吐息がすぐそばで感じられ、呼吸の仕方を忘れそうになる。

 

「無理しなくていいから。一度外に出て、落ち着こうか。」

 

良くない! 出ちゃダメだ!

龍宮の脳内で警報が鳴り響く。

ここで退いたら、すべて台無しだ!

 

「俺は——」

 

自暴自棄になって思いをぶちまけようとしたその時、巨大なガラスに映る自分たちの姿が目に入った。ゆったりと泳ぐ銀白色の魚の影が、自分の影と重なる。

 

——もし自分に魚の尾があったら、暁の目には、あんな風に映るんだろうか。

 

幽玄な青を背負って立つ暁は、背後からの光に包まれ、朧げな輪郭を帯びている。それはどこまでも純粋な、「人間」のシルエットだった。

 

龍宮は口を開いた。

……声が出ない。

もう一度試したが、声帯が空回りするだけで、音節一つも紡ぎ出せなかった。

 

「暁……」

ついに項垂れる。その声は無力感に満ち、かすれていた。

 

「お前……本当に、何も分かってないんだな……」

「うん、分かってるよ。」

 

暁は安心したように微笑み、強張った龍宮の手を引いた。

「まずはアイスでも食べて、頭を冷やそうか。」

 

……分かってない。お前は本当に分かってないんだ。

 

龍宮は死んだ魚のような目で、暁に引かれるまま出口へと向かった。

カバンの中の薬の瓶が、布越しに背中を圧迫する。

カウントダウンの始まりを突きつけるように、冷たく。

 

それからの龍宮は、何かに取り憑かれたようだった。

バイトで貯めた小銭を使い果たしながらも、頭にあるのは「告白する」という一念だけ。

 

三日目、夏祭り。金魚すくいの屋台と、浴衣姿の人混み。 花火が打ち上がった瞬間、何度も深呼吸を繰り返すが、言葉が喉に刺さった小骨のようにどうしても出てこない。

 

五日目、深夜の映画館。 スクリーンの明滅が、暁の横顔を絶え間なく揺らしている。

肘掛けの上で、何度も手を伸ばしかけては躊躇う。

……心臓はあんなに熱いのに、指先だけが、恐ろしいほどに冷めていく。

結局、その手を引っ込めてしまった。

 

おかしい。命を懸けられるほど好きなのに、なぜ土壇場で体が言うことを聞かないんだ?

 

まるで心の中の何かが、「やめろ! これ以上言ったら、全てが終わるぞ!」と叫んでいるかのようだった。

 

人魚との約束の七日目が近づくにつれ、焦燥が胸を締め付ける。連日の奔走に加え、陸地の乾燥した灼熱の真夏は、半人魚の彼にとって拷問に等しい。

ついに体力の限界が訪れた。

 

七日目の夕暮れ。空は血を滴ったように赤く、不気味だった。

龍宮は暁の家の前に立ち、ノックしようと手を挙げた瞬間、脳内で凄まじい轟音が響いた。

 

ポツリ。ポツリ。

空の水槽に水滴が落ちるような、芯まで凍える音。

目の前のドアが波打つように歪み始め、吐き気を催す銀色の冷たい光を放ちだす。

 

「龍……? 龍宮!」

ドアを開けた暁の声がしたが、それは深海から浮かび上がる泡のように、遠く空虚に響いた。

 

龍宮が最後に見たのは、血相を変えて飛びついてくる暁の影だった。

足元がふっと消え、彼は暗闇の中へと転落した。

次の瞬間、彼は長い間封印されていた、生臭く湿った記憶の夢へと落ちていった。

 


 

小学三年生の夏。龍宮にとってそこは、文字通りの灼熱地獄だった。

 

保健室の古びた扇風機がガタガタと音を立て、不快な熱風を撒き散らしている。龍宮は氷嚢と濡れタオルに埋もれながら、朦朧とした意識の中で毒づいていた。

 

「クソ親父め、一体何を考えてんだよ。店の妖怪連中だって、学校なんて行かなくていいって言ってるのに、なんで俺が人間に混じって干からびなきゃならねぇんだよ……」

 

熱気に蒸し殺されそうになっていたその時、保健室のドアがバンと開いた。

「龍宮くん、起こしちゃったかな? ごめんね。」

先生が鼻声で言いながら、一人の少年を連れて入ってくる。

 

暁だった。

 

当時の暁は今よりもずっと細く、口数も少なくて、まるで折れそうな枯れ草のようだった。

白いシャツには無惨な足跡がいくつもつき、膝は泥まみれで血が滲んでいる。

その姿は、ゴミ捨て場から拾い上げられた壊れかけのぬいぐるみのようでもあった。

 

「クラスの子に……ひどい悪戯をされちゃってね。お薬を取ってくるから、隣で休ませてあげて。」

 

先生はそう言い残すと、青いカーテンの向こう側に暁を寝かせ、足早に去っていった。

室内は気味が悪いほど静まり返り、窓の外の蝉時雨だけがうるさく響いている。

 

龍宮は吸い寄せられるようにベッドを抜け出すと、裸足でペタペタと床を歩き、暁の方へ向かった。

カーテンの隙間から、影の中に横たわる彼を盗み見る。

 

暁はうなされていた。暑さのせいか、汗ばんだ襟元を無意識に弄っている。

その拍子に襟がはだけ、首筋の傷跡が露わになった。

赤黒く、悍ましいムカデのような形。それは喉仏を這い、うなじの髪の中へと消えていた。

 

まるで、一度切り落とされた首を、慌てて針と糸で縫い合わせたかのような痕。

 

幼い龍宮は息を呑み、いつの間にか暁のベッドに這い上がっていた。その傷跡へと顔を近づける。

見つめているうちに、乾ききっていた喉に不思議な涼しさが広がり、心臓が破裂しそうなほど脈打った。それは同情でも、怒りでもない。

 

その瞬間、保健室の風景が壁紙のように剥がれ落ちた。

熱風も蝉の声も、一瞬でかき消える。

 

気づけば龍宮は、冷たく銀色に光る金属製のシンクの中に丸まっていた。

空気は魚の生臭さと鉄の匂いに満ち、周囲には紅白の長い髪が乱雑に散らばっている。

顔を上げると、まな板の上に、一人の女の首が置かれていた。

 

直感した。

これが、自分の母親だ。

 

深海の底に差し込む光のように、その瞳はどこまでも深い慈しみを湛えていた。身体を失ってもなお、その眼差しは子守唄のような温かさで、龍宮の震える心を包み込んでいる。

断ち切られた首からはルビーのような血が滴り、金属の底に重く響く。

 

それは龍宮がこれまでの人生で見た、何よりも美しい『赤』だった。

――暁の首にある傷跡と、全く同じだ。

 

「見つけた……俺の、同類……」

 

シンクの中の龍宮は、震える赤ん坊の手を伸ばし、母から流れる赤を受け止めようとした。

現実の龍宮もまた、手を伸ばし、暁の首にある醜い傷跡に指先で触れる。

 

電流のような痺れが全身を駆け巡った。

その時、龍宮はようやく悟ったのだ。

暁への執着は、人間が言うような「好き」という軽い言葉で片付けられるものではない。

 

それは、同病相愛。

この男からは、自分が生まれた時と同じ、壊れていて、生臭くて、甘い匂いがする。

強烈な戦慄は十数年の時を超え、夢の中で津波のように押し寄せ、意識を飲み込もうとした。

 

「はっ……!」

龍宮は大きく息を吸い込み、跳ねるように飛び起きた。

そこは暁の部屋だった。鉄の匂いはせず、代わりに泣きたくなるほど安心する、暁の匂いだけが漂っている。

 

しかし、夢の中のあの涼やかさがまだ骨の髄に残っていて、なかなか消えてくれない。

龍宮は顔を背け、窓際で背を向けて立っている暁を見た。

相変わらず襟の高いシャツを着て、器用な指先で紐を弄っている。

 

暁の背中を見ていると、胸が苦しくなった。

自分はまるでペテン師だ。太陽の下で元気に跳ね回ることもできず、かといって人魚の本能を受け入れることもできない。その中間に挟まった「怪物」のくせに、暁のような「真っ当な人間」の傍にいようとしている。

あの夏、暁の傷跡を見つめる脳裏を占めていた血生臭い思惑を、もしも彼が知ったとしたら……。

 

「あ、起きたんだね。」

 

暁が振り返った。

手には作りたての、逆さまに吊るされた「てるてる坊主」があった。

 

「小さい頃、君が熱を出すといつもこれを作ったんだ。」

 

暁は逆さまの白い布切れを見つめ、何気ない口調で言った。

「君は暑がりだから、雨を降らせて冷やしてあげようと思って。涼しくなれば、少しは楽になるだろう?」

その不恰好で愛らしい、逆さまの人形を見て、龍宮は鼻の奥がツンとした。

 

「お、俺はもう昔みたいに弱くねーよ!」

龍宮は無理やり起き上がって、大げさに筋肉を見せつけながら笑った。

 

「見ろよ! 今の俺はマッチョ龍宮様だぞ!」

「はは、説得力ゼロだね。」

 

暁は笑いながら歩み寄り、自然な動作で龍宮の額に手を当てた。

「まだ熱いよ、マッチョ君。」

 

暁の瞳が至近距離で見つめてくる。用意していた告白の言葉は、一瞬で消え去った。

 

そうだ……親父が言ってた。

「自分を完璧な人間や人魚だと思い込むな、お前はお前だ」って。

もしこの本能も自分の一部だっていうなら、一体何を逃げ回っているんだろう。

 

「なあ、暁……」

 

龍宮はふざけるのをやめ、真剣な眼差しで聞いた。

「お前……ずっと俺の友達でいてくれるか?」

 

暁は虚を突かれた顔をしたが、すぐに「やれやれ」という表情を浮かべた。

「当たり前だろ。君、まだ寝ぼけてるの?」

 

「じゃあ……じゃあさ……」

龍宮は布団の端をぎゅっと握り、最後のかけに出た。

 

「たとえ俺が……とんでもなく性癖の歪んだ、大変態だったとしても……受け入れてくれるか?」

 

嫌悪されるのを覚悟して、龍宮は息を止め、首をすくめて待った。

返ってくるはずの軽蔑も、拒絶の言葉もない。

沈黙が、やけに長く感じられた。

 

「ふふっ、何それ。」

 

低い笑い声が耳をくすぐる。抗う間もなく、暁が身をかがめてきた。

耳元に熱い吐息が吹きかけられる。

二人の距離は信じられないほど近く、襟元の下の傷跡が、彼の呼吸に合わせて動くのを感じた。

「いいよ、別に。それに……」

 

暁の声は低く、龍宮がこれまで一度も引き出したことのない、艶めかしい色気を帯びていた。

 

「僕の方が、君より変態かもしれないよ?」

 

……

 

「…………は?」

 

思考が、一瞬で真っ白に染まった。

夏の熱気さえ生温く感じるほどの熱が、一気に脳頂まで駆け上がり、顔が爆発しそうなほど赤くなる。

 

海へ帰る必要なんてなかった。

「まともな人間」のふりをする必要もなかった。

なぜならこの世界には、とっくに彼にぴったりの居場所があったのだから。

 

「うぅ……」

脳がオーバーヒートし、龍宮は短い悲鳴を上げると、あまりの羞恥と衝撃にそのまま枕に沈み込み、再び気絶した。

 

「……まったく、これだけで気絶しちゃうなんて。」

顔から煙が出そうな龍宮を見て、暁は落ち着いて布団をかけ直し、慣れた手つきで新しい氷嚢を彼の額に乗せた。

「ゆっくりおやすみ、変態さん。」

龍宮は朦朧とする意識の中で、目の前の暁を見つめた。

 

——そうか……暁がいる場所が、俺の故郷なんだ。

 

怪物だろうが変態だろうが、この人がここにいて、この手を握ってくれるなら、もう一人ぼっちじゃない。

夢の中に、もう血の匂いはしなかった。

鼻先をかすめたのは、暁から漂う、淡い石鹸の香りだった。

 


 

午後の居酒屋はひっそりと静まり返っていた。

窓から差し込む木漏れ日が、古い木の香りと、昨夜の残り香である微かな酒気と混ざり合っている。

 

「親父、俺……深海に戻るの、やめた。」

 

龍宮はカウンターを布巾で熱心に拭きながら、顔を上げずに言った。

あの人魚から預かった魔薬は、もう海辺で返してきた。

手放した瞬間、かつてないほどの身軽さを感じたのだ。

 

酒棚を整理していた卷雲の手が、わずかに止まる。

「……ほう。まあ、それも良かろう。」

しゃがれた声が、短く応えた。

 

「親父、もしかして全部お見通しだったのか?」

龍宮が手を止め、不思議そうに養父の背中を見つめる。

 

「当たり前じゃ。誰に育てられたと思っておる。」

振り返った卷雲の、いつもは険しい眼差しに、龍宮でも分かるほどの温かな色が宿っていた。

 

龍宮はへらっと笑い、それから困惑したように頭を掻いた。

「でもさ、薬を返した時、てっきり大騒ぎされると思ったんだけど。あいつ、『愛は全てに勝る』なんて言ってあっさり引きやがった。あいつら、一体何を考えてるんだ?」

 

「狂った連中の考えなど、理解しようとするだけ無駄じゃ。」

卷雲は鼻で笑うと、腰を下ろして煙草に火をつけた。

 

紫煙がゆったりと立ち上り、店に静寂が訪れる。

窓際で跳ねる光の粒をしばらく見つめていた龍宮は、意を決したように、努めて何気ない風を装って口を開いた。

 

「…親父。今まで聞いたことなかったけど、俺のおふくろって……どんな人だったんだ?」

 

卷雲の、煙草を挟んだ指先がわずかに凍りついた。

灰色の煙が視界を遮り、彼の表情を隠す。

 

視線の先で、古びた店の壁が少しずつ透き通り、二十年前の、やはりこんな風に蒸し暑かった午後へと巻き戻されていく――。

 

『ねえ、マッグ!』

 

記憶の中の椿綺(つばき)は、行儀悪く敷居に胡坐をかいて座っていた。紅白の入り混じった髪を振り乱し、生意気な小娘のような笑みを浮かべて、卷雲の肩を叩いてはしゃいでいる。

 

『あんたが私の男になりなよ。ほら、私ってこんなに綺麗なんだから!』

 

当時、青魚を捌くのに忙しかった卷雲は、目もくれずに答えた。

『よせ。わしは淡水妖じゃ。その鼻につく磯臭さを洗い流し、川の魚にでもなったら考えてやろうぞ』

 

『ちぇ、つまんないの――』

椿綺は大げさに溜息をついて空を見上げた。だが、その瞳には一瞬だけ、鋭い落胆が過った。

 

『……まあ、本当は誰だっていいんだけどね。この退屈で死にそうな深海から連れ出してくれるなら。私、その人を愛してあげる。』

 

窓の外では、蝉が狂ったように鳴いている。

椿綺はまだ笑っていた。だが、その瞳には不意に背筋を凍らせるような、強烈な渇望が滲んだ。

 

『その人のためなら、何だってあげるわ。鱗の一枚から、骨の一本まで。……たとえ、この心臓を抉り出してくれって言われても——』

 

彼女は卷雲の方を向き、純粋すぎて恐ろしさすら感じる笑顔を見せた。

 

『喜んで、この手で引き抜いて見せてあげるのに。』

 

卷雲は彼女を見つめ、珍しく複雑な哀憐を口にした。

『……そんな有様では、いずれ悪い男に食い物にされるだけじゃぞ』

 

卷雲はゆっくりと煙を吐き出した。煙の向こう側で、彼は沈黙する。

やがて、その口角が奇跡のように微かに上がり、龍宮が見たこともないような、淡く苦い笑みを浮かべた。

 

「……無邪気な、狂人であったのう。」

 

龍宮は一瞬呆然としたが、すぐに自分も小さく笑った。

「……どうやら俺にも、おふくろ譲りの厄介な血が流れてるみたいだな。」

 

二人は店を片付けながら、暁が来るのを待った。

 

暁がここで働き始めて二年。妖怪だらけの店で、彼は唯一の人間であり、この親子と人間界を繋ぐ唯一の絆だった。

暁は二人の正体に気づいていないが、彼の冷静な性格と完璧な火加減の技術がなければ、この店はとうに潰れていただろう。水の中に住む彼らにとって、台所の火ほど御しがたいものはないのだ。

 

龍宮は、甘い期待に胸を膨らませていた。

いいんだ。今はまだ、告白ができなくても。

壁の時計を見つめる心拍は、軽やかに跳ねる。

 

今日のバイトの後は暁とアイスを食べて、明日の週末は釣りに行って……

そうだ、来年の夏休みには、あのムカデみたいな傷跡に、キスくらいできるかもしれない。

 

自分たちには、まだたっぷりと、果てしない時間があるのだと信じていた。

 

「チリン――」

風鈴が鳴った。暁が、相変わらず襟の高いシャツをきっちり着こなして入ってくる。

 

「暁! 来たな!」

龍宮が弾んだ声で駆け寄ろうとしたが、暁の表情に、申し訳なさそうな影があることに気づいた。

 

「少し、相談があるんです……」

暁は龍宮を見つめた。その深い瞳に、読み取れない感情が過る。

 

「来月いっぱいで、ここを辞めさせてください。叔父から家庭教師の仕事を紹介されて、断れなくなったんです……」

 

「……え?」

 

龍宮の顔から、笑みが剥がれ落ちた。

すぐ手元にあると信じていた、どこまでも続くはずの未来。

それが風鈴の澄んだ音と共に、足元から音を立てて崩れ去った。